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ストリートのヒジャブ

一年前の夏、雨季にも関わらずよく晴れたバギオ のパブリックマーケットで出会った時、アシュニールは自信なさそうに俯き、ストリートで働く仲間のあとを付いて回っていた。ショックピンクの鮮やかなヒジャブは、クリスチャンが大半をしめるこの都市のど真ん中ではあまりにも目立ちすぎていたし、8歳の小さな身体とかすかな恐怖を映した上目遣いは、あまりにもコントラストが強かった。

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一年経っても、汚れたショックピンクの布は彼女の頭を覆い、身長は少しだけ伸び、アシュニールは9歳になっていた。売りのもののヴィヴィッドカラーのプラスティックバッグを抱えて、パブリックマーケットの真ん中に伸びる大通りを駆け回る。小動物を狙うチーターのように、ヒジャブから覗く丸い目は道行く人々を追いかける。

 

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ヒジャブを被ったカラバオ

コインを15ペソ分差し出して黄緑色のバッグを買うと、いたずらっぽく笑う。「学校のためだ」と懇願する表情は、きっと作り物だったのかもしれない。

一年前、アシュニールに初めて出会った日、ふざけて彼女を「カラバオ」と呼ぶと、まるで同年代の友達に揶揄われたかのように嫌な顔をし、「あいつがカラバオ(フィリピンで広く飼育される水牛の一種)」だと隣の少年を指差した。そして、自分は「キャット(cat)」だと。一年経って9歳になった今も、「カラバオ」だけはダメらしい。相変わらず自分は「猫」のままだという。右手の薬指にはめられた小さな銀のリングは、誰にもらったのだろうか。この日本人はもう望み薄とでも思ったか、衣類を売る商店を通りかかった白人に駆け寄り、バッグを買わないかと、得意の上目遣いで詰め寄る。

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袋を売る子どもたち

フィリピン・バギオ のパブリックマーケットには、マーケットで買い物をする客に向けて、プラスティックバッグを売る人々が多く存在する。その大半が、10歳前後の小さな子どもたちである。ムスリムの衣装を身にまとった子どもたちの姿も多い。「カラバオ」のアシュニールは、その中でもおそらく最年少に近く、年上の仲間たちのあとをついて、兄弟のようにストリートを歩く。彼ら・彼女らは、それなりに整った衣類を身にまといながら、時にはアクセサリーを身に付けつつ、「学校にいけない」「ご飯が欲しい」などの言葉を発し、コインを稼ぐ。まるで放課後の遊びかのように、パグリックマーケットを駆け回り、時折仲間を揶揄い、疲れたら日陰で休み、また「仕事」を再開する。

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共同体における「機能」としての存在

マーケットを訪れる人々は、何の疑問も持たないような表情で、子どもたちから袋を買い上げ、買い物を続ける。彼らの目線は、マニラの物乞いに向けられるような「憐れみ」に等しいそれとは異なり、プラスティックバッグの対価として手渡すコインに「慈悲」の意味は含まれていないように感じる。例えば、買い手から子どもたちに対して、バッグの価格以上のコインが手渡されることはほとんどないし、売り手が破格の値段を提示していわゆる「ぼったくり」を敢行することは起こり得ない。「小さな商人たち」は、マーケットにおける必需品供給という一機能としてその共同体に溶け込み、その機能を継続的に全うし、適正とされる対価を得る。それは、途上国における「貧困」のイメージを脱した、パブリックマーケットという共同体における独自性のひとつである。

 

パブリックマーケットの「小さな商人たち」の存在とその異質さを、バギオを訪れるたびにじわりと感じ、しばらく頭の片隅にまとわりつくのである。