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#2 禅寺の庭【光と暗闇の消えた先に】

 好きなものは幸いにして色々ある。平日の夜や休みの日は。そのものたちへの愛情を深めてくれるのではと直感的に思った作品を眺めて、その感想を人に伝えたいとい情熱に駆られているので暇を感じる隙間はなかった。私をそうやって熱狂させてきた一つの存在が庭、とりわけ禅寺のそれだ。

 禅寺の庭を好むのは、静けさに満ちた庭が、日々の労苦を自身の中に溶け込ませて、労苦さえも深い安らぎの種にしてくれたからだ。だが、ある時、私は庭に前のめりになるあまり、庭の姿をいつの間にか見失ってしまうのではないかと恐れた。愛ゆえの怖れだけが頭を占めていたなら庭の姿に盲になっていたと思う。眼に射した光明は、庭への愛ゆえに読んだ本の文章の一節の形をもってさしてきた。曰く、自らの文化を理解する最良の方法は、ほかの文化への理解であると。その時の仕事を年末いっぱいで辞めることが決まっていて、年明けてからの予定が白紙だったので他の文化を見ようと思った。一人旅に行くことにした。

 旅先の候補はいくつかあったが、日本の文化である禅寺の庭をより知るには、文化が日本へ来たシルクロードがいいだろうと思い、その道を東から西へ向かうことにした。行く国はウズベキスタン・イラン・トルコ。旅を終えるのはイスタンブール。終盤の際になって、イスタンブールは終点の地位を奪われ、エルサレムがその代わりになるのだが。

 旅の終わりに立った涯とは禅寺の庭への理解ではない。確かにこの旅は対比を通じて、愛する庭の特徴を私に示した。何も描かれず刻み込まれていない空白の存在が、庭をして人々に安息をもたらす。物質や情報を日常的に詰め込まれると、それらからの遮断は人々に解放感を覚えさせる。一方モスクには解放感がなかった。モスクの壮麗なタイル、天に届くかというミナレットは安息の瞬間を非ムスリムの私には用意していない。非ムスリムという自分の属性を強調したのは、ムスリムにとっては、モスクは見る対象ではなく、敬虔な祈りを捧げる場であり、一心不乱な祈りは彼らに安息を覚えさせ、私の目には過剰な美に映ってしまう装飾も安息と一体化して、ムスリムを慰撫する役割を担っているのではと思ったためだ。私の涯は禅寺の庭への理解ではないが、そもそも庭を理解したいと思わなければ、旅に出ることも、もちろん涯に立つこともなかった。

 禅寺の庭への理解には早々と至ってしまった。ウズベキスタンが一か国目だったが、一か国目滞在の6日目くらいには理解していた。この後をどうしようと思った。ただ何とかしなければとはそれほど切迫しては感じていなかったので、何とかしなければという思いは旅の終わりのほうまで地下深く潜行していた。潜行が終わるのはイスタンブールでサバサンドを食べるその時だ。

 

 

Suguru Sugita @wordgazer

 

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