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#5 旅の涯に【光と暗闇の消えた先に】

 エルサレム旧市街を訪れたときの日記。

「小学生の時分に世界遺産図鑑で、三つの宗教の聖地がこの都市に集まっていることを知っていたので『聖都』という、宗教にあまり熱心でない日本人からすれば仰々しさを感じる二つ名を思い出した。知識としてエルサレムが聖都だとはわかっていた。今日は知識のみならず感覚としてもここが聖都なのだと納得した。感じたからといって街のすべてが聖性を帯びていたわけではない。宗教がいかに根を深く下ろしている土地とはいえ、国際的な観光都市であり、城壁の中でも人々が生活を営んでいるのだ。日が昇り、街が夜の死から復活すると、人と人のあいだに交わされる言葉、物同士が擦れ合って生じる音が聖都に浸透していく。言葉と音が都に染み出していくよりも前のほんのわずかな時間に私は幸運にも旧市街の街路を歩いた。岩のドームの拝観時間に間に合えと念じながら地図も持たずに急ぎ目で歩いていると、はっとした。己に関わる人々の心を深くえぐるような聖都の鋭利な歴史が突如自分にのしかかってきた。だがその歴史の重さは、私を潰すほどのものではなかった。友人や家族との話に花が咲き、炉端の売店に売っている金太郎あめ的なレディメイドに目をくれるほどの気楽さを自分に許さないくらいの重さだ。鋭利な歴史の重さ、とは、ドームの金色の謂いである。不純物の何ら混じっていない空に岩のドームの金色が輪郭まで鮮やかに浮かび上がっていた。ドームの頂点がまず見えて下部の広がりが徐々に姿を現すというのではなく、堅固な石造りの住居と住居の間に何の前触れもなく金色を目の当たりにさせるという突然極まりない顕現の仕方だった。私はこの顕現を、住居と住居の間の街路で目撃したのだが、その街路は泥で汚れ、街路から住居に入ってゆく扉の塗装は剥げて捲れ上がり、生活ごみの臭いがむっと立ち込めていた。私の衛生観念では許されない生活の有様は、ドームとの対比を通じて、ドームを手の届かぬ天空へと祀り上げる。
 街路が俗だとすれば、金色のドームは聖だ。聖は神々しい光を放つが、俗は手垢にまみれて塵のなかで光を失っている。聖と俗、生と死、白と黒、過去と現在・・・。対比は理性の素晴らしい産物だとは思うが、対比される一方への蔑視ゆえに私は均衡を失っていた。
街路という俗から見えた聖なるドームは対比を乗り越えて、対比の根底にある区別を揺さぶってくる。一方を卑しむために他方はあるのか、他方を讃えるために一方はあるのか。俗を卑しむために聖はあるのか、聖を讃えるために俗はあるのか。聖と俗が渾然とするエルサレムの光景は私を自問させる。ごみのすえた臭いがして塵芥の残る街路を歩かなければ、ドームの金色がここまでの神聖さを帯びることはなかったのではないか。人々の生があるからドームは聖性を帯びて目の前に現れた。もはや蔑ろにしてきた生活の愚かさはドームと同じほどに神聖な光を放つ。俗があるから聖があり、聖があるから俗がある。聖と俗は互いによって立つのだと思い知ったとき、その二つは煙のように消え去っていった。」

 聖と俗が消え去って私は涯に立っていた。なぜか分からないが、この涯に立つためにすべてはあったのだという穏やかな気持ちに包まれていた。涯の先に見えるのは新しい世界だ。新しい世界では、区別しつつも区別ない時間が流れている。この世界はいま歩みをはじめた。住む人はまだいない。私自身が、区別しつつも区別なく生活を過ごすことで、新しい世界に住む人々は増えてゆく。理性の持つ区別という働きの有用さを認めつつも、過度にその区別に囚われず、区別しつつも区別なく生きたいと願う。街路とドームという強烈な対比は行き過ぎた区別という現世の檻から私を解き放った。解き放たれたとき、私は心が自在になるのを感じた。もう人間の生活を蔑まなくてもよいのだ、執念に囚われなくてもよいのだと思うと、喜びが胸に満ち溢れた。

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