光と暗闇の消えた先に

Suguru Sugita @wordgazer

 人々の生活がただ朝から昼、昼から夕へ、夕から夜へと河の流れように過ぎ去っていって、旅人には何ら目をくれることがない街が旅には必要だ。情景や歴史を摂取するのに上げ下げされる箸を置いて、摂ったそれらを自分の血にするために旅人が目を閉じて、そこでは箸を手にしないことを許してくれる鷹揚な街。観光都市は旅人には厳しい。これを見たらその次はこれ、この料理を食べたらあの料理、と見えない指図を送ってくる。異国から来た旅人は、この地のことなど何も分からず困っているだろうから助けようという親切心の発露なのだろうが。

 意外と早く文章への踏ん切りがついた気がしてくる。涯の姿を書いてゆこう。 

何をするでもなく、宵に散ってゆく梅の花を見ていただけの昨日の日記を書き始めるにしても、果たして書きおおせるのかと不安になったほどなのだから、旅の終わりに立った涯(はて)を文章にするにはどれほどの踏ん切りをつければいいのかとよろける。

好きなものは幸いにして色々ある。平日の夜や休みの日は。そのものたちへの愛情を深めてくれるのではと直感的に思った作品を眺めて、その感想を人に伝えたいとい情熱に駆られているので暇を感じる隙間はなかった。私をそうやって熱狂させてきた一つの存在が庭、とりわけ禅寺のそれだ。

ウズベキスタンからイスタンブールにたどり着くまでに八つの都市、二つの国を通ったのだが、感興を何ら催さないわけがなかった。とりわけイランのペルセポリス、トルコのエフェスは僕にとって第一級の歴史だ。死ぬまでにペルセポリスを見ることができて本当に良かった。今でもその喜びで胸がいっぱいになる。感情の高ぶりに身を任せた日記を引く。

イスタンブールを旅の終点にしたのには理由がある。何かのガイドブックで見た「東西文明の十字路」という言葉が、半端な知識欲を刺激したから。自文化を相対化すると言って旅に出た身には旅の大団円のためにこれ以上望むべくもない街に思えた。

街路とドームという強烈な対比は行き過ぎた区別という現世の檻から私を解き放った。解き放たれたとき、私は心が自在になるのを感じた。もう人間の生活を蔑まなくてもよいのだ、執念に囚われなくてもよいのだと思うと、喜びが胸に満ち溢れた。

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